健康コンサルコーチ®大熊まゆ プロフィール

1971年 山梨県に生まれる。

沖縄旅行で初めて姓名判断を占ってもらったところ、

「世話好きで1がおおくつくので、社長になるタイプで、家庭も円満」という

という結果でした。

確かに占いの結果の通り、おせっかいかな?と思うほど、人にいいもの(行動)を進めたり、仕事も人の役に立ってお金がもらえればと思って選んだ管理栄養士の仕事に22年就いていました。

子供時代

食べるのが大好き。身長も体重の数値も大きい子供でした。

両親は仕事をしていて、かなり外食の多い子供でした。

母は、あまり栄養には気を付けず、肉中心、野菜もマヨネーズ。大きなスーパーも徒歩1分、スーパーが冷蔵庫でしたので、今思うとぞっとするものを、かなり喜んで食べていました。

運動は、もちろん苦手で運動部に入ってはいましたが、文化系の部にも所属していました。

大学受験

大学受験当時、短大や文系に行く友人が多い中、管理栄養士になって、病気の人に美味しいものを食べさせたい、その当時、一番安い学費の「管理栄養士専攻」のある大学を選び、入学しました。先生には、「もっと貪欲になれ」と言われたことを覚えていますが、今思うと、その大学に行って良かったと思います。

いま思うと、高校生の時にダイエットに成功して、周りにいろいろ教えたのが、大きい影響があったのかと思います。もちろん高校時代も食べるのが大好きでした。

受験勉強のストレスからの過食とダイエットに結構悩みました。

「いっぱい食べても、痩せればいいな」といつも考えていました。

大学に入って、栄養士になったら、痩せられるという考えは浮かびませんでした(笑)

学生時代

初めての一人ぐらし。実はご飯を炊いたことがなく、入学式隣になった親友に炊きにきてもらいました。

そして、4月の健康診断。「貧血」になりました。太っていても貧血になるんだあと思ったものです。

2年間はほとんんど、一般教養で、せっかく親に出してもらったので、めいいっぱい単位を取り、土日はアルバイトをしました。

そして平日も夕方から、住んでいたマンションの大家さんの経営している塾で講師をしていました。人にものを教えるのが好きだったので、楽しかったです。

そして、楽しみは美味しいものを食べ歩くこと。

3.4年生になるころには「歩くHanako」と呼ばれていました。

合コンも飲み会も、自分が幹事になり、行きたいお店に行くというのを楽しんでいました。合コンの目的は果たせなかったですが、いろいろな人にいろいろなことを学びました。

3,4年生は専門が忙しくなり、そして国家試験対策があり、アルバイトもする友人がいななかったですが、土日していたオペレーターの仕事が派遣制度となり派遣として、かなり時給も上がり、融通も聴いたので4年の春まで続けました。

そこでは、社員のお局様に教育され、大学1年の時は、初日泣きました。いまでも思い出すのは、「分からなかったら詳しい人にきくんだよ」というお局さまの言葉。

その人は、派遣制度に会社がなってから、キャリア道に進みました。時々会う姿は、はつらつとされていました。

いま思うと病院や保健所、学校、どこに勤めていても一人か二人の職種だったので、多職種と連携しないと何もすすみません。

進んで人に聞けるよいになったのは、あのアルバイトのおかげかもしれません。あと宅配受付センターのオペレーターではありましたが、土日は苦情も多く、苦情処理も体で覚えました。

その後の仕事でも、相手の身になれば解決できることに繋がりました。

3,4年生の学校生活は、実習に明け暮れ、実習先の一つ、一番厳しい保健所の実習がありました。友人も実習以外のことで泣き、常にあなた方の学校から実習生は取らないと。

実習生の立場、長い実習でした。

ただその管理栄養士さんではなく、アルバイトの管理栄養士さんたちの検診説明会の様子を見ると、とても素敵で、私の目標としていた病院よりもやりがいがあると感じました。一人ひとり真剣に短時間でしたが話をしていました。

私も参加し、「血圧が高いので、塩はダメだと言われた、砂糖をなめればいいのか」と聞かれたとき、びっくりしました。これはなんとかしないと。保健所の栄養士になって、正しい食の知識を持ってもらおう。と。

30年ほど前の話ですが。ただ残念なことに、30年たった今でも食べるものと健康維持についても、人々のリテラシーの差はあります。

そして、就職活動。

地元の県庁を受け、2次試験で落ちました。

「保健所の栄養士になりたい」と言ってしまったこと。その時の県の空きは病院であったこと。それが原因だとしったのは・

就職

2次試験も落ち、その間内定も断り、やはり保健所の栄養士になりたいと思っていたところに、地元の保健所の臨時採用があり、採用されました。

それもラッキーなことに管理栄養士さんのいる課です。バイトのおかげで、初日電話を2本、両方取ったことを上司がとても買ってくれて(笑)。

保健所では、管理栄養士の仕事も含め、新卒者にしては、いろいろなことを経験できました。

病院転職

いろいろな職種に保健所の仕事を教えてもらいながら、管理栄養士の試験も受かり、やはり管理栄養士の中でも栄養指導の仕事がしたと思い、隣の市の病院の管理栄養士の募集に応募しました。

その病院は栄養士3人いるので、管理栄養士の私は栄養相談だけすればいいとの話で病気の人でも、栄養指導ができれば改善できると期待を膨らませて応募しました。

入ると3か月間、鎌倉の系列の病院で管理栄養士さんにいろいろ教わってきてほしいと言われ、鎌倉に研修に行きました。

透析と療養型は中心の病院でした。

そこの管理栄養士さんに2か月は委託の現場に入るように言われ、その時は「なぜ?まずい包丁下手。」という不安でいっぱいでした。

直営と委託というのは結構複雑な関係ではありますが、委託会社の調理師さんはとてもいい人で、すべて手切り(大量調理はほとんど機械が主流でした)で私の切ったサラダの人参もスープに替えてくれるような人たちでした。

病院の寮に入り、そこでも身の回りのものを看護師さんや臨床工学師さんが揃えてくれて、なにかと面倒を見てもらいました。

初めての土地で、朝もかなり早く、暗いうちから起きなければなりません。鎌倉なので暖かいと思っていて暖房設備が整わず、ただ覚えているのは、寒い朝、起きてニュースを見ては、阪神大震災の模様が映っていて、私もがんばらなければと思ったことです。

2か月後現場に慣れたころ、いよいよ管理栄養士についての研修です。その当時栄養指導の内容は人に見せないのがふつうでしたので、患者さんに了解を得て、少し離れていたところから聞いて学びました。

透析で水の夢を見る人、コーヒーは飲みたいときはデミタスカップで飲む工夫をしているひと。透析している様子。

すべてが今でも鮮明に浮かびます。最初は現場に入れられて、疑問も感じました。ただ、その後、その現場をやったことで、現場に入らなくても、現場の様子がわかるようになった。

現場ばかりにとらわれがちな管理栄養士は対象者を向けないので。

そして、一方的指導が主流だった栄養相談を患者目線で、患者さんの生活に寄り添う管理栄養士さんに会えたことも財産となりました。

3か月後、就職先の病院に戻りました。そして、3人の栄養士さんは退職することになっていました。

昔はよくあることですが、献立は立てた人のもの。献立もないまま、翌月になりそうになりました。

鎌倉の栄養士さんが、すごく苦労したという献立がこんなにも早く役立つとは、すぐに使おうと、その病院に変形したのですが、現場は作れない。

現場自体も人の入れ替え変わりも週単位(もすごく問題があり、今でいうパワハラ)で、人で不足。元凶の調理師が、わざと糖尿病の献立を作らない。

20分前に分かり、一人で調理。

冷凍庫に走る姿を他のひとに見られ、そのことは院内に広まり、それ以降調理師は、私に対する嫌がらせは終わり、ただ人の入れ替わりだけは激しくて。やはり病院の体制も・・・・。

お給料も初めの金額と異なっていたし、ごみ箱もない事務室で仕事するのも疲れ、病院を正しい方向にするのは、そして患者になる前に栄養指導は必要。

やはり保健所で仕事したいという気持ちが出てきました。

再び保健所栄養士に

ある日、私が保健所の職員になりたいことを知っっていた元職場の人から、「今年は採用があるみたいという」という情報が来ました。「今度は~を希望しますって言わない方がいいよ」というアドバイスとともに。

無事に保健所に勤務し、激務ではありましたが、いろいろな事業に携われて、そして健康になることに繋がる仕事をしていると自負できました。

臨床の勉強も続けたかったので、一番東京に近い勤務先ということもあり、平日は勤務後東京や横浜に勉強にいくこともでき、また健康運動士や禁煙・高脂血症の指導者の資格も職場で取得させていただきました。

もっともっと沢山仕事をして、保健所の栄養士の仕事を充実させたかったので、県庁へ異動を希望しました。

しかし前任者の関係で、県立学校の勤務になりました。

もちろんモチベーションは下がりましたが、食べることが好きなので、美味しい給食を食べさせたい、支援学校だったので、将来生活習慣病だけにはならないでという気持ちで、献立作成、食育に励んできました。

学校の保護者のサプリの関心も高かったので、その頃は国の機関で管轄していたNRという資格(現在NRサプリメントアドバイザー)の資格を取り、またケアマネの資格もその頃取りました。

ただどうしても組織の中で、せっかく学んだことが、対個人であれば効果がよくわかるにも関わらず、多数の方を対象としていて、個人的なかかわりが思うようにできなかったことが歯がゆかったです。

その後、また保健所へ異動。

その間結婚をし、子供も作れない忙しい毎日を過ごしていました。

そしてふと夫の母の年齢を意識し、子供が欲しいと思い始めました。しかし、ハードな生活のせいか、体質なのか理由が分からないまま子供は授かっても手に抱くことはできませんでした。

会議前の流産など辛い思いをしながら、このまま仕事をしていたら、子供がもてないのでは?と思い始めました。

また、その中で医療は自分で決められる、自分で探さなければとうことに直面し、海外にいったり、全国を探しました。そして2年間、関西の神戸で名医に巡り合い、1度の治療で、子供を授かることができました。

その後育休に入り、不育症のブログも書いていたり、人の健康ブログを読んだりしては。これからは正しいサプリの選び方は必要と思い研究のできる、そして長年NRサプリメントアドバイザーの資格の教本を書いている教授のいる、家からも近い大学院に通いました。

そこでは、栄養教諭の資格の単位も取れたので、最新の食育についても学び、また論文を書いた研究では、さらに特保やサプリメントの正しい知識を伝えないといけない使命も強くなりました。

その後、復職後、私の仕事の関係で母子で単身赴任。

電車で2時間半、週末子供を連れて4年間通いました。

そのような中、異動もあり、また職場の人間関係で疲れ果て、体調を崩すことがありました。いつものごとく、対処法を見つけて、であったのは「マインドフルネス」でした。

そして、マインドフルのまま(あるがまま)の状態になることの大切さを学び、栄養相談や栄養コーチングに生かせないかと研究しました。

個人での指導は特定保健指導という制度の中での指導がありましたが、やはり国で行うものは、費用対効果(効果の出る対照群に対して効果の多く出る標準化された方法)を目指しているので、もれているひとや予備軍の人に対して、その人にあったものが提供されにくいので、そこでは満足できない人もいることは仕事の中で感じていました。いわゆる難しい対象もなんとかしたいと思っていました。

子供の小学校入学を機に退職し、時間が拘束されないなら、勤めるのでなく、必要とされる方に必要なプライベートな栄養指導をしたいと思っていました。

個人的にその方に寄り添い、確実に不安を除き、健康に自信を持って、楽しく健康を保てるお手伝いがしたいという思いがわいてきました。

自分もずっと組織で働いてきて、時間もあったかと言うと本当に毎日いっぱいいっぱいでした。だから経済的にすごく恵まれているといかと言うとそうでもありません。

栄養の常識(エビデンス)も日々変わっています。そして、かなり一般で出回っていることは、エビデンスが低く、何よりもその方のメリットにならないことが多いです。

私の理想は、知識・時間・経済的に余裕がないひとにも

  • 自ら自分の栄養管理が簡単にできるように指導します。
  • 20数年の管理栄養士生活で培った経験を活かし、個人の生き方を尊重した、あるがままの自分でいられるその方の目指す食生活の方法を教えます。
  • 栄養の知識やリテラシーがアップしてきたら、それが継続できるよう、支援をしていきます。

相談いただいた方自身が、何よりも、食を起因とする不安を取り去り、自分らしく楽しく健康維持できることが目的です。やはり食は人を良くすると書いて、良くするものなのですから。

一緒に安心して健康的な生活を送りましょう。

すこしでも、皆様のお役にたてれば幸いです。

所持資格

  • 栄養士
  • 管理栄養士
  • 健康運動士
  • 介護支援専門員
  • NRサプリメントアドバイザー
  • 国立医療科学院認定 健康教育指導者
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